朝乃山の出身中学、高校、大学などの学歴は?恩師との秘話も!

高砂部屋の朝乃山関は恵まれた体格で、右四つを武器に大相撲で活躍しています。

朝乃山関を育んだ出身中学や高校、大学はどこなのでしょう。

学歴と恩師との秘話をまとめました。

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朝乃山まとめ

朝乃山の出身中学

朝乃山関は1994年3月1日、富山県富山市呉羽町に生まれました。

富山市立呉羽保育所から富山市立呉羽小学校に進み、4年生の時からハンドボールと並行して相撲を始めました。

ハンドボールではキーパーとして活躍し、富山県の強化選手に選ばれるほど、実績を残しました。

朝乃山関は運動神経がよかったようですね。

しかし富山市立呉羽中学校に入学した後は、ハンドボール部の厳しい練習に耐えられずに退部し、相撲部へ入部しました。

3年の時に全国都道府県中学生相撲選手権大会に出場。

この時朝乃山関は相撲できめられ、左肘を骨折したのです。

そのため左を差すのが怖くなり、朝乃山関が右四つになるきっかけになりました。

出身高校

左肘のケガにより、朝乃山関は相撲をやめることも考えたそうです。

しかし富山商業高校相撲部監督の浦山英樹さんに「富商に来い。俺が強くしてやる」と声をかけられました。

それ以来朝乃山関は中学卒業まで、週末になると富山商業高校で高校生と一緒に稽古に励みました。

浦山先生から四つ相撲を教わり、右四つの形を磨いたのです。

そして富山商業高校に入学してからは主将を任され、3年生の時には選抜高校相撲十和田大会準優勝の実績を残しています。

浦山先生は怖くて、朝乃山関は廊下でも会いたくないくらいだったそう(笑)。

朝乃山関は新十両昇進の時に四股名を「朝乃山英樹」にしましたが、「浦山英樹」さんの名前から付けたのです(現在は朝乃山広暉)。

恩師の浦山先生は朝乃山関が幕下優勝を決めた翌日、40歳という若さで膵臓がんにより逝去しました。

後に遺族から「浦山英樹」の名前入りの化粧まわしを贈られています。下の写真の「朝乃山」の下に「浦山英樹」とあります。

朝乃山関は勉強は全然しなかったそうです。

角界入りした後、母校に呼ばれた朝乃山関は体育館に集まった生徒たちに次のように言いました。

「部活に打ち込めば、あとは先生がなんとかしてくれる」

それを聞いた先生たちは苦笑だったようです(笑)。

出身大学

朝乃山関は高校を卒業後、近畿大学経営学部経営学科に進学しました。

2015年の国体では富山県代表選手に選抜され、富山県の団体優勝に貢献しました。

大学時代に個人タイトルを7つ獲得したほか、4年生で国体成年の部4位、全日本相撲選手権大会ベスト4の実績を残し、三段目付出資格を取得しました。

近大での恩師は伊東勝人さんです。

朝乃山関の将来性を見いだした伊東さんは、体幹トレーニングを重点的に課したり、食事をたくさんとらせたりしました。

その結果入学時130キロだった朝乃山関の体重は、卒業時162キロにまで増えました。

伊東先生は優しくて、相撲の細かいところまで指導してくれたそうです。

しかし高校の浦山先生も伊東先生も指導がネチネチで、朝乃山関は嫌いだったそう(笑)。

2020年1月場所中、伊東さんは原因不明で55歳で亡くなりました。

亡くなる2日前にも伊東さんからアドバイスをもらっていた朝乃山関は、携帯で恩師の逝去の連絡を受けた時「嘘だろ」と思ったそうです。

今の朝乃山関があるのは浦山先生と伊東先生のおかげなので、もっとネチネチの言葉を聞いておけばよかったと、後に朝乃山関は話していました。

大学1年の3月に、近大と高砂部屋の合同稽古で幕下力士と稽古を行った朝乃山関は、相手を受け止められなくて吹っ飛ばされました。

そのため大相撲入りは考えていなかったそうです。

しかし大学2年の時に若松親方(初代朝乃若)に勧誘され、高砂部屋へ入門することになったのです。

朝乃山の出身中学、高校、大学の学歴まとめ

朝乃山関は富山市立呉羽中学校で相撲部に入り、全国の大会にも出場しました。

進学した富山商業高校では主将を務め、四つ相撲の形を磨きました。

その後近畿大学に入り、実績を残して三段目付出資格を取得しました。

高校と大学で相撲を教わった二人の恩師が、今の朝乃山関の活躍につながっています。

朝乃山関は二人が天国から見守ってくれていると思いながら、相撲を取っているようですね。

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